ヴェリコ・タルノヴォ

第二次ブルガリア帝国(1187〜1393)の首都
Veliko Tarnovo / Велико Търново

 
 ツァレヴェッツの丘からトラペジッツアの丘を臨む
ヴェリコ・タルノヴォの町は3つの丘と、3つの地域に分けられ、丘の間をうねるように、ヤントラ川が流れている。3つの丘は第二次ブルガリア帝国の城塞などの遺跡が残っている。ツァレヴェッツの丘は、第二ブルガリア帝国時代に丘全体が宮殿だったのが、オスマントルコの猛攻をうけ瓦礫に変わってしまった。今は城壁、城門が残り、丘の頂上には教会がある。教会の中の壁画は、ブルガリア現代絵画の巨匠のものだ。スヴェタ・ゴラの丘は、「聖なる丘」の意味で、第二次ブルガリア帝国時代に教育、文化、宗教の中心だった。この時代にキリル文字が考案され、ヴェリコ・タルノヴォはヨーロッパで一番進んだ教育、文化をもっていて、他の国から留学に沢山の人が訪れた。
相撲の琴欧州の出身地。今ご両親はこの町を出て、少し離れた村に住んでいるそうだ。
 ホテルからヤントラ川、アッセン王モニュメントを臨む
 ツァレヴェッツの丘の入口
  
 丘に上に建つ家々
2008年6月 
ルーマニアのブカレストを13時30頃出発し、17時過ぎにヴェリコ・タルノヴォに着いた。18時頃から町の散策に出かけたが、小雨が降りだした。車の中からツァレヴェッツの丘を正面から見たとき、城壁の広さ、美しさに感動する。雨が降っているので、丘には登らず、サモヴォドスカタ・チャルシャという通りを散策した。ここは金銀細工、陶器、織物、革製品、木彫り、絵画の店が連ねる。どの店も工房を兼ねていて、製作作業を見せてもらったり、実際に造った人達に商品の説明を聞いた。疲れがでたので、散策はほどほどにして、私はホテルで休み、夫はガイドとお茶を飲んでいた。
翌日ツァレヴェッツの丘に行き、夫はガイドと頂上の教会まで行ったが、私はスヴェタ・ゴラの丘を眺めながら、丘の途中で休んでた。その後丘を降り、ヤントラ川の中洲になったような場所にある、アッセン王のモニュメントに行った。滞在したボルヤルスキ・ホテルが正面に見えた。
この町は地図や写真で見ても、実際の山が切り立った丘や、蛇行するヤントラ川の立体感、美しさは分からない。体調不良でなければ、ツァレヴェッツの丘の「音と光のショー」に行きたかった。もう一度訪れたい町だ。
サモヴォドスカタ・チャルシャ
エピソード
「優しいブルガリアの人達」

ヴェリコ・タルノヴォに着くまで、ルーマニアで3泊した。日本からブカレスト到着翌日に、専用車でトランシルバニア地方に出発し、ブラショフで一泊してブカレストに戻ってきた。ブカレストからヴェリコ・タルノヴォまで4時間近くかかった。今までの旅行とは違い、車に乗っている時間が長くて、身体が凝り固まっていた。ルーマニアの料理がおいしくて、食べすぎも堪えていた。この日は朝から身体が重く、お昼もあまり食べれなかった。夕方に小雨の中、ヴェリコ・タルノヴォの散策に出かけた。
細い坂道を登り、職人さんたちが作っている物、売っている物を見てまわる。坂道を登りきったところの広場前の店で、土産品を見ていると我慢できなくなって、夫に「気分が悪い」と言うと、「もうちょっと、我慢せいや」と言われた。が、我慢できなくなって、外に出て座りこんでしまった。店の人は大変心配して、中から小さい椅子を持ってきて座らせてくれ、隣の店でペットボトルの水を買って持ってきてくれたり、「フレッシュ・エアー」といいながらガムをくれたりした。ガイドのマリアさんは、上手に背中をマッサージしてくれた。

少し楽になってきたので、「店の人にお世話になったので、ここで何か買物したい」と言う。ちょうど夫の友達の子供に合いそうな、Tシャツが沢山あった。店の人は「そんな気を遣わなくてもいい」と、言ったようだったが、気にいったものがあったので買うことにする。水を買ってくれた男性がオーナーで、自分の工場で作らせているTシャツとのことだ。「水代を払う」と言うと、「困った時はお互いさま。助けあわないとね」と、断った。
この
サモヴォドスカタ・チャルシャ通りで、色々な店に入り、商品を説明してもらった。皆感じの良い人達で、何も買わなかったのが気の毒だった。ルーマニアのガイドが、「ブルガリアの人はスラブ人で、ルーマニア人に比べたら、おとなしいです」と、言っていた。本当に控え目で、優しい人が多いのだと思った。
 お世話になったお店 
  店の前の小さな椅子で休んだ
 店のオーナー、ガイドのマリアさんと
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